たわむれ日記

たわむれに いろいろ書き散らします

梢の三日月と読了『フォンターネ 山小屋の生活』

図書館を出たら夕暮れで、体がキュッと締まるような冷気だった。
ストールを手繰り寄せ、手袋をはめて、ちょっと遠回りをしてみる。

夜が少しずつ昼の世界を侵食していくこの時間が、近頃心地よく感じる。

見るからに寒そうなまだ暗い家を横目に、灯りを背に台所らしき窓に人の動くシルエットが見えたり、雨戸を閉めている人と目があったり、玄関灯がパッと明るく点く瞬間を目撃したり。
人の暮らしと営みに触れるからか、なんとなく心が穏やかになる。

公園では中学生くらいの少年たちが歓声をあげて遊びまわっていた。
真冬の逢魔時、犬の散歩の人すらいない公園は少年たちの天下で、ボールを投げ合っては戯れている。自分の子供時代を思い出した。

この日、空には三日月。

桜の梢と暮れゆく空と月がしんみりと美しくて、何枚も撮った。

桜にはもう蕾がたくさんついて小さく膨らんでいる。

春待つ梢。

わたしは春を待っているのかな。
うーん  今のところ、冬を楽しんでいる。
幸いにもこの地は今のところ寒波や雪の被害を受けていないこともあって。

以前はとにかく夏が大好きで、常夏の国に住みたかった。
いつの頃からか、日本の四季の移り変わりを楽しむようになった。
嫌いだった冬が好きになった。
冬の静けさ厳しい寒さの中に、着々とエネルギーを充電している感覚が潜む。
いつの間にか冬を楽しんでいる。

なかなか布団から出られないほど冷え込む朝や、湯船に浸かったとたん”あー”っと声が出る瞬間、自転車を走らせたとき体はぽっかぽかでも頬は凍風にさらされる感じや、アラジンの青い炎を眺めながら静かに過ごす夜とかを。

今夜はアラジンの上で鉄瓶がシャーっと微かに立てる音をBGMに、『フォンターネ 山小屋の生活』を読み終えた。

パオロ・コニェッティは2作めで、『帰れない山』の前に書かれた作品。
小説ではなくて、ミラノという都会の生活に疲れた著者が、本とノートとペンだけを携えてアルプス山麓のフォンターネに山小屋を見つけ、春から秋まで過ごした体験の記録である。

『帰れない山』が、このフォンターネでの体験が基になったことはすぐに分かった。ブルーノのモデルとなったのはきっと、山小屋の生活で親しくなった牛飼いのガブリエーレと家主のレミージョだろう。

仕事にも恋愛にも人間関係にも行き詰まり、創作の源泉さえも枯渇してしまったと感じた著者が一人で彷徨う山、登山小屋のアンドレアとダヴィデとの夏の束の間の暮らし、アルプスの山人の習慣、春から夏、秋へと移り変わる山の暮らしと人との交流のなかで、少しずつ回復していっているのが感じられた。
そうとは書いていないけれど、秋、登山小屋から山小屋に戻り、新しいノートを開いた場面でそれは確信に変わった。

山と山の暮らしの様子が淡々と、でも力強く綴られている。
著者の素晴らしさもあるが、翻訳者の力量を感じた。

本を閉じると、良質のドキュメンタリーを観たような満足感が広がった。

旅に出るときに携えたい1冊。

よく旅したインドでは、お気に入りのゲストハウスやカフェに旅人たちが置いていった本が並んでいて、よく借りて読んだ。
旅のお供に連れて行った『フォンターネ』を、そんな宿やカフェの本棚に並べたい。
どんな旅人が手に取るだろう。
きっと気に入ってくれるはず。

 

著者は執筆以外にも、恩恵を与えてくれた山々に恩返しがしたいと、『野生の呼び声』と称する活動を行っているそうだ。

彼は、現在のようなスキーリゾートのあり方(リフトを建設し、ゲレンデを均し、水を汲み上げて人工雪を降らせる)に対し、山を痛めつけるものだとして批判的な立場をとっている。だが、もはやスキー客がいなければ山の住民の生活が成り立たなくなっている実情も無視できない。そこで、オルタナティブな山の活性化の方法を探るために、廃屋となっていた家畜小屋を買い取り、「古い山の民と新しい山の民の出会いの場」として提供したのだ。夏には、文学や音楽や芸術の分野で活躍する人々を招き、コンサートや写真展を開いたり、エコロジーについて討論したり、トレッキングをしたりといったイベントも開催している。(2020〜21はコロナ禍のため中止) ー訳者あとがきより

彼のそういった山に対する想いの深さ、心根の優しさが作品に表れて、わたしは魅かれているのかもしれないなと思った。