たわむれ日記

たわむれに いろいろ書き散らします

父と毒ガス

お盆のための様々な買い出しに準備、作り置き料理を作ったり、かと思うと緊急代行依頼がまたありそれを受けるなどして、忙しなく日々が過ぎていき、気づいたら15日であった。

終戦記念日ですね。

子供の頃は、お盆の時期、特に8月15日の終戦記念日には戦争に関するテレビ番組をどのチャンネルでもこぞって放送していたが、今では本当に少なくなった。
あったとしてもニュース番組のちょっとしたコーナーとか。

テレビはお茶の間に一台のみだった時代。両親が見るその番組を子供のわたしも仕方なく見る羽目になって、悲惨な体験や映像、重苦しい語り口や雰囲気を今も覚えている。

夏休みのお盆の時期って、独特の空気感があったなぁ

あれは何歳の頃の、どこの神社だったのか。大きな神社の夏祭り、立ち並ぶ屋台の光も届かないような境内の片隅、薄暗がりの中に片脚のない傷痍軍人が物乞いをしていた。自らを見世物にし、太い筆で何か書いた小さな看板みたいなものを立て、通り行く人々にお金を貰っていた。

その存在感は強烈で、そこだけ異空間だった。

何と書いてあったのか覚えていないが、文字全体の雰囲気が怖しかった。

戦争が終わって数十年経っているのに、そんな人がいたなんて今思うと不思議でならないが、想像するに、お祭りがあるとそういう格好をして行うことで何かを伝えたかったのかもしれない。

もしや後付け記憶?
いやいや、その人からは強い強い怒りが発散されていたように感じたことを鮮烈に覚えている。

怒りが強いのは、それだけ悲しみが深いからだ。

 


戦争は昔起こったことで、自分には関係ないことと思っていたが、そうでもなかった。

両親には兄弟姉妹がたくさんいて、父の長兄は兵隊として戦争に行ったとのこと。どこでどんな戦いをしたのか聞いてみたいと思っているうちに、鬼籍に入ってしまわれた。

戦時中、父は学生で理系の勉強をしていたせいか、都内にあった毒ガス製造工場で働いたと聞いた。働いていた隣の建物が爆発するか空襲にあって命拾いをした、という話をしていたな。

父は数年前、眠っている間に”いつの間にか骨折”で背骨(胸椎)を折り、救急車で運ばれて入院した。骨折を診察した医師がひどく驚いていたのは、父の骨が男性にしては異例なほど脆くなっているということだった。骨密度が同年齢の女性よりも悪い。骨がスッカスカ。

父は好き嫌いなく3食しっかり食べていたし、活動的だったので意外だった。ふと思いついたのが父が毒ガス製造に関わっていた、ということ。

毒ガスを作っているときに防護マスクを着けるが、確認するためなのか、興味本位なのか、ホントはやっちゃいけない『毒ガスをちょっと吸う』ことをしていたそうなのだ。

私が医師にそのことを伝えると、父は懐かしそうに、そしてなぜか得意そうに、『ちょっと吸うんだよ〜笑』と話し始めた。医師はそれが原因の一つになっているかもしれない、という無難な答え。そりゃそうだ、今となっては分からない。

けれど私は思うのだ。

マスクを着けていたにしろ、『ちょっと吸い』をしていたにしろ、毒ガス製造の現場にいたのだから身体に影響がないわけない。

兄の喘息や私のアレルギー体質も、もしかしたらそれが影響しているのかも。

 

以前ニュース番組の特集で、戦争に兵隊として行った方が体験したことが記憶に残っている。

その方の上官は、戦地で妊婦の腹を裂き、赤ん坊を引きずり出したのだそうだ。
単なる興味で。

日本人は酷いことしたよ。そういうことをした人が、今は誰かのおじいちゃんになっている。

しみじみ語ったその方の言葉が重い。

戦争というものは人を狂気に駆り立てる。外国との戦いだけでなく、国内の戦でも強奪、殺人、レイプが横行した。戦争とはそういう悲惨なもの。

日本だけが酷いことをしたのではなく、あの戦争に参加した国の兵隊たちは酷いことをした。

戦地で酷いことをした人が、今は誰かのおじいちゃんになっている。

父の作った毒ガスはどこで使われたのかな。
それで亡くなった方、今も辛い思いをしている方がいるのだろうか。

戦後78年。

原爆を広島と長崎に落とされた日本。

麻生太郎氏が台湾で何やら発言してましたね。
でも麻生太郎氏自らが戦場、最前線に行くことはまずないよね。