わたしが住む地域は月遅れ盆なのだが、お寺さんの新盆供養會に兄が参列してきた。
父のときに無かったのは、コロナ禍の影響みたい。
旅立って初めてのお盆を迎える魂のための御供養で、旅装束一式をお供えし、一部のお供物を持って帰ってきた。
白いサラシで出来た三角形の袋に入ったお米、穴あき銭(5円玉と50円玉)は江戸時代のように紐に通され、暑くないように白い扇子。
これを月遅れ盆が終わるまで仏前にお供えするのだそうだ。
お仏壇はそれほど大きくはないので乗るか心配だったが、何とかなった。
お線香が倒れて火事にならないように気をつけないと。
お供物の入った袋の中に式次第が入っており、そこに書かれていたお言葉が良かったのでここに記しておこうと思う。
新盆を迎えられる方から、「生前、もっと色々なことをしてあげたかったですよ。あまり親孝行ができず、それが心残りです」との言葉をよくお聞きします。
「親孝行したいときには親はなし」との言葉もありますが、では父母への孝養に篤かった日蓮大聖人はどのようにおっしゃられているでしょうか?十王讃歎抄にて「孝養に三種あり。衣食を施すを下品とし、父母の意に違わざるを中品とし、功徳を回向するを上品とす」とおっしゃられています。
生前、父母の生活の面倒などを見ることよりも、父母を安心させる生き方をする事が父母への孝養である。
しかしもっとも重要なことは、父母が亡くなった後に丁寧に回向を捧げることが最上の親への孝養であるとおっしゃられています。また大聖人は、私たちに命を与え育ててくれた父母へ生きている間に返せる音は大海の中の一雫ほどである。父母亡き後に回向を捧げ続けることが本当の報恩であるとおっしゃられています。
先の話にあった、「親孝行したいときに親はなし」ではなく、本当の親孝行とは父母を亡くした後いかに感謝の心で供養・回向を行うかであるのです。
亡き精霊へ回向を捧げても、捧げずとも精霊からは何も聞くことはできません。
しかし、何かを行って「ありがとう」の言葉を聞くから行うのではなく、本当の報恩とは何も言われず反応も無いけれども、自分の感謝の想いを行動にして行う事ではないでしょうか。
太字部分がグッときた。
我が一族の菩提寺は日蓮宗で、父方の祖先のお墓も同じお寺にある。仏教にもいろいろ宗派があることは知っていたが、自分ちの宗派なんて全然知らず、父が亡くなった時に知った。
檀家であるが特に信者というわけでもないけれど、このお言葉とか、ご住職のお説教を聞くと、ヨーガやヴェーダンタと同じことを違う言葉で言っているだけで、ストンと胸に落ちる。
何故わたしのような人間が生まれたのか、生まれるならもっと世のため人のために役立つ立派な魂を持った人間が生まれれば良かったものを、何てことを思うことが多々ある。自分自身を呪うことだって。
孫がいる年齢になっても尚こんな風なので、わたしの魂はよほど幼いのだろう。ホントにもうやんなっちゃうな、と自棄っぱちな気持ちになる。
でも父と母から授かり、苦労して育ててくれた、この世界での命だということを肝に銘じて、乗り越え生きぬかなくてはな。
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どうもありがとうございます。