久しぶりの原田マハさんは、珍しく歴史小説だった。
「風神雷神図屏風」の作者である謎多き俵屋宗達の少年時代を描いた物語。
織田信長が覇権を握ろうかという戦国時代の日本から、ルネサンスのイタリアへと舞台が移っていく壮大なフィクションだ。
日本が誇る名画『風神雷神図屏風』を軸に、海を越え、時代を超えて紡がれる奇跡の物語!
20××年秋、京都国立博物館研究員の望月彩のもとに、マカオ博物館の学芸員、レイモンド・ウォンと名乗る男が現れた。彼に導かれ、マカオを訪れた彩が目にしたものは、「風神雷神」が描かれた西洋絵画と、天正遣欧少年使節の一員・原マルティノの署名が残る古文書、そしてその中に記された「俵…屋…宗…達」の四文字だった――……ー原田マハ公式ウェブサイトより
「風神雷神図屏風」と言えば、美術にはとんと疎いわたしでもパッと思い浮かぶ。
でも、作者は知らなかった。学校で習ったと思うが、テストのための暗記ですぐ忘れてしまったんだな。
俵屋宗達。
言われてみれば、何となく聞いたことのあるような。
物語では宗達は京都の「俵屋」という扇屋の息子という設定で、物心着く頃から絵を描くのが好きで7つの頃から店の扇の絵も手がけるようになる。その絵は少しずつ評判になり、やがて織田信長の耳にも入り大層気に入られ「宗達」という名を頂くまでになる。
時代はキリシタン大名が台頭し京の町に南蛮寺が建設され南蛮人が歩く時代。
信長は厚遇している宣教師のたっての願いを聞き入れ、また信長と宣教師双方の胸に秘めた企みが合致し、4人のキリシタン少年からなる「天正遣欧使節団」が長崎からローマへ向けて出航する。
その中に、信長の命で俵屋宗達も絵師として同行する。
なんとも奇想天外な発想!
4人の少年のうち、原マルティノだけは出会いの妙から宗達に親近感を抱き、あれこれと親切にするが、選民意識の高い武家の少年たちは反目する。しかし厳しい航海の中で少しずつ打ち解けてゆき、ヨーロッパに着く頃にはお互いの存在を大切にし合う仲間へと成長していく。
スペイン国王との謁見で窮地に陥る使節団だが、宗達のひたむきな覚悟に4人のキリシタン少年が取る行いに胸が熱くなった。
奇想天外といえば、渡欧する前、狩野永徳に「洛中洛外図」を描くように命じた信長は同時に、その作成を俵屋宗達に手伝わせるようにも命ずる。宗達にしか描けない南蛮寺や南蛮人などのおもしろきものがあるからだ。
宗達は3ヶ月ものあいだ狩野永徳宅に住み込み手伝う。そのなかで永徳の高潔な人柄、絵に対する純粋な情熱と愛情のみならず、技法も習得していく。
完全な原田マハさんの創作ではあるが、実際そうだったら何と面白いだろう。もしかしたら真実の的を得ているかも知れないと思うとワクワクする。
後の宗達の代表作に「蔦の細道屏風図」がある。蔦の表現に使われているのが、たらしこみ、という技法で、初めに塗った墨が乾く前に違う濃さの墨をほどこし、その滲みによって質感や量感を表現する琳派の代表的な技法である。
その技法を「洛中洛外図」を描く過程で少年の宗達が発見した場面があったりして、芸が細かいというか、さすが原田マハさんだなと思った。
とにかく読み応えのある物語なのだが、嬉しくなっちゃったのはインドのゴアが出てきたこと。
天正遣欧少年使節団がゴアにも立ち寄っていたとは!
アラビア海に面する西インドのゴアはわたしにとって馴染み深い場所。5年ほど毎年ホリデイシーズンを過ぎてから1ヶ月〜3ヶ月滞在していたほど大好きな土地。
ゴアが昔ポルトガル領だったこと、なので教会が多く存在すること、地元の人もキリスト教の信者が多いことは知っていたけれど。
初めてゴアに行ったのが2011年のことで、親しくなった日本人の旅人とオールドゴアまで遊びに行ったことがある。お目当ては美味しいランチだったのだが、壮麗な教会があるとのことで訪れてみたのだ。
その教会に、フランシスコ・ザビエルが眠っていた。
まさかフランシスコ・ザビエルがインドに眠っているとは!
その時皆んなでびっくり仰天したことを覚えてる。
「天正遣欧使節団」の少年たちも此処を訪れたのかと思うと、何も知らずたわむれに立ち寄った昔の自分が羨ましい。
まっさらな気持ちでその場所を感じたくて、下調べなどせずに旅をするのがわたしのスタイルなのだが、考え直した方がいいかも。
彼らは船の風待ちで長く滞在したらしい。
日本へ帰国する時もこの地に滞在したはず。
帰国した日本が大きく変わり自分たちの運命が翻弄されていくことも知らずに。。
「風神雷神」はヨーロッパを訪れ丁重なもてなしを受けた彼らがジェノバの港から帰国の途につこうとするところで終わっている。
狩野永徳が描いた「洛中洛外図屏風」、俵屋宗達の描いた数々の絵画を、実際にこの目で見たくなった。