たわむれ日記

たわむれに いろいろ書き散らします

旧暦の大晦日と読了『グレゴワールと老書店主』

師走の晦日、大晦日

明日の朝5:53 水瓶座新月を迎え新しい一年が始まる。

が、寺社でさえもグレゴリオ暦で動いているので
世間的には大晦日感はまったく無い。

職場での雑談で大晦日ですね!って言ったら皆さん目がテンに。
そりゃそうか。

ネットでもテレビでも来週に日本列島を覆うらしい最強寒波の襲来を煽りに煽っている。

この地は前は海、後ろは山なので、予報ほど深刻な状況にはならないのが殆どだ。ニュースではベースを東京に置いて報道しているので、???となることも多々。

今回もそうだといいな。

とりあえず、庭の剥き出しの水道にはバスタオルでも巻き付けておこうと思う。

戸建てなので、水道管がどうにかなってしまった場合、公道であれば市が治してくれるが、敷地内であれば全額自費で修繕しなければならないので。

読了はマルク・ロジェ『グレゴワールと老書店主』。

題名からしてそそられる。
楽しみにしていた一冊である。

バカロレアにも落ちてしまったグレゴワールが、老人施設の仕事でピキエ老人に知り合い関わり合いを深めていくにつれ、眠っていた知性が呼び覚まされ、ピキエ老人のみならず周りの人々を巻き込みながら人としての成長をしていく。

いわゆる『学校のお勉強』は良く出来るが、社会に出ると全く役に立たない人や、『学校のお勉強』が合わず個性が埋もれてしまう人は一定数存在する。

グレゴワールはお勉強は全くダメで、本など手に取るのも嫌。社会人として多少の忍耐強さを持ち、釈然としないものを抱えながらも見て見ないふりが出来る鈍感さを身につけている。

それが、自室に3,000冊の本を持ち込んでいる元書店主のピキエ老人と出会い、本とは読書とは何かということを通じて人として成長していく。

作者は朗読家で、そのような職業があることを初めて知った。朗読がいかに真心とテクニックを必要とするか、ということも。

このところ海外文学が続いている。特有の詩的な表現においては、文字や言葉が上滑りしてしまい、何度も何度も読み返したりした。
それでも自分の中に落とし込めず、言葉がツルーっと流れ出てしまう。

これはもう文化の違いで致し方ないのかも知れないと諦めた。

例えば、北村薫さんの小説に編み込まれている膨大な知識は、まるでわたしがそれを語っているかのように一体となる。

けれどこの物語は舞台も生まれ育った文化も違う。違うどころか、想像も出来ない。想像したとしても、ネットなどで断片的に拾ったものだけだ。
それに、物語に出てくるのは作者も内容も知らない本ばかり。

だからきっと、滑って滑って滑ったまま終わってしまったのだ。

つまらないわけではない。面白い物語だった。
老人ホームの老人たちが、実は心の中には熱い想いを隠している描写とか。
グレゴワールの人生が意外な方向へ進んでいくのも楽しかった。彼が旅する様子は映画を観ているように感じた。
ただ登場する作家や物語に、馴染みがなさ過ぎた。

わたしが知らな過ぎて、プロの朗読者である作者の熱量が遠かった。
降参。

 

ひとつ、心に留まったのが、「プレザン(出席)」の手をちゃんと挙げ意思表示をすること。

人生は切り拓け、自ら参加していくんだ!と鼓舞されている気がした。