1月某日
いつもは心地よく感じる、しんと静まった部屋の空気がなんとなく寂しくて、なんとなくテレビをつける。
BSで映画をやっていた。
大好きな映画のひとつ、『西の魔女が死んだ』の終盤のシーンだった。
りょう演ずる母親と高橋真悠演ずるまいが、英国人である祖母のもとへ車を走らせるシーン。
まいが意を決したように口を開く。
おばあちゃんって
最後まで言わせず、母親が応ずる。
そうよ、おばあちゃんは本物の魔女よ
この映画は何度も何度も観た。これからも繰り返し繰り返し観るだろう。
このシーンに至るまでの西の魔女とまいの交流はすでにわたしの中に積み上がっている。そしてこのあと何が起きるのかも知っている。
それでも
息を詰めるように見入った。
ラストの、最も心を打つシーンだけだけれど、ずっと観ていたような濃厚な時間が流れた。
母親がまいに台所へ行くようお願いする
ドアが閉まる
まいの背後から絞り出すような母親の慟哭
まいは毛嫌いしていた人間臭いキム兄演ずるゲンジの、男臭くイカツクい見た目から想像つかないような繊細な一面に触れ、そして見つけるのだ
幼い魂が発した幼い言葉、後悔しかないサヨナラだったとしても、西の魔女にはぜーんぶ分かっていたこと。
だから、まいは見つけた。見つけられた。
西の魔女、おばあちゃんの『I know.』という言葉がとても好きだ。
わたしにも、こんなおばあちゃんが居たらと何度思ったことか。
まいにとっての西の魔女を思うとき、トットちゃん(黒柳徹子)にとっての自由学園の校長先生を思い出す。
君は本当は、とっても良い子なんだよ、と言い続けた校長先生。
はーい!わたしは良い子でーす!と元気を炸裂させていたトットちゃん。
”扱いにくい子”と言う母親の言葉に深く傷ついたまいに、「あなたはわたしの誇りです」と包み込むような眼差しで伝える西の魔女。
何度も観て知っているけれど、ラストシーンだけで泣いてしまった。
ラストシーンだけで入り込んでしまった。
好きな映画っていうのはこういうものなのかも知れない。
映画から入って原作も読んだけど、小説も映画もどちらも胸にぐっと迫るものがある。
わたしもまいと同じように、親にとって”扱いにくい子”で
母はわたしを望む通りの女の子にしたくて、様々な嘘をついたり、呼び名を改名したりしたけれど、母の思惑はかなわず、わたしを理解出来ず、呪いのような言葉を何度か吐いた。
自分たちとは違う性質を持った、わたしという魂をそのまんま受け入れてくれる親だったら、わたしの人生もどこか何かが違っていたのかな〜なんて思ったりもする。
でもま、自分の人生の上手くいかない部分を誰かのせいにしちゃいけないね。
両親がわたしを持て余しながらも愛してくれていたことは間違いないのだから。
鎌倉で暮らしていた時期、個性的な人々と次々と出会い繋がり、友達が増えていった。
パーマカルチャーを実践する人、自然農法で野菜を作る人、天然酵母のパン職人、唄う人、画家などのアーティスト、ツリーハウス職人、会社員、美容師、ダンサー、DJ、大工、サーファー、経営者、ヨガ講師、料理人、ゲイの人、バイの人、百合の人、仲間内で堂々と不倫する人、産まれた時は男性だった人、エイズの人などなど。
でもこの世界で生きていくために貼り付けた様々な目印を外した状態で交流していて、ふとした時に肩書きやらなんやらを知り、へーそうなんだと思うけど、そういった看板を背負っていない素の魂同士での関わり合いだった。
どういう意図なのか、「あなたと仲の良いXさんは、もとは男性ですよ」とか「彼はゲイなんだよ」などなど言ってくる人がいたけれど、だから何?って感じ。
あ、そう。知ってるよ。うん、そうらしいね。・・・で?
彼らは何が言いたかったんだろうなぁ
そういうところ、両親と同じ匂いがした。
Xさんがもと男性とか、Zさんがゲイとか、そうじゃないとか、どっちでもいいのよ。
Xさん、Zさん、という存在そのものが好きで友達なのだから。
わたしは、どんなに違う性質を持った魂が家族の中にあっても、それをまるごと受け入れ、一人一人の本質を真っ直ぐに受け止めようと決めている。
ありのままの自分を、ありのままに受け止めてくれる存在があるというのは、どんなにか救いだろう。どんなにか心を強くするだろう。どんなにか安心できるだろう。
あなたはあなたのままでいいんだよ。
つい先日、二人目の孫が産まれた。
こんな、ロクデナシのわたしに、神様はなんという贈り物をするのだろう。
西の魔女のようなおばあちゃんになれたらいいなと思う。
精進しよう。