たわむれ日記

たわむれに いろいろ書き散らします

片付けに、思うこと

合間合間に片付けを続けている。

昨日は自室の雑誌エリアと、2階の和室をちょこっと。

最近めっきり買わなくなった雑誌。もう読まない雑誌が雑然と並んでいるのが風景としてそこにあって、何の違和感もなかった。怖いわ。不用品に囲まれて物の多い暮らしというのは、そんなふうに出来上がっていくんだろうな。

ちょっと頭を切り替えて違う意識と目線で見ると気づく。
不要品であること、そこに無くてもよいもの。

以前よく遊びに行っていた友人の家は、高級住宅地に建つ地下1階地上2階の立派なお屋敷なのに、今は亡きお母様が、捨てられない人、物を溜め込む人で、友人もその癖を受け継ぎ、物凄いことになっていた。

部屋という部屋に天井まで洋服やら何やらがうず高く積み上げられ、3DKのアパート一室ほどの広さがある玄関ホールも足の踏み場がなく、物を踏まないように苦労して抜けていた。玄関すら使えず、かろうじて裏口から入っていた時に比べたらだいぶん進歩だったけれど。

友人たちがちょっとずつ協力して片付けていたけれど、油断すると住人がまた物を溜め込むのでイタチごっこ。一緒に住んでいるパートナーとよく揉めていたっけ。あの家を初めて訪問した時は衝撃だった!ゴミ屋敷って本当にあるんだなって目の当たりにしたことと、由緒ある邸宅の中ってこんなふうなんだーって格式のある調度品や欄間の透彫を見て思った。

10人は座れそうなダイニングキッチンのテーブルの上は物置と化していて、拭いているのか不安になるテーブルで果物やご飯を勧められ食べた時にはかなり勇気がいった。未開の部族を訪れて敵意がないことを示し受け入れてもらうために、現地のお酒や食べ物を口にする、そんな感じ?笑

遊びに行くたびに、これはこう片付けて、これらは捨てた方がもっとスッキリ暮らしやすくなるのになーと思っていた。住人にも都合があり、思い入れがあるから、思っているだけで言わなかったけれど。

そこにあるのが当たり前で、もう景色の一部となっている。だから気づかない。

亡き親が集めた物だったり、思い出があったり、いつか使うかも、という住人の想いがずっしり乗っているものもある。執着、というんだろうなぁ
わたしも実は、亡き父がテーラーで作ったスーツを捨てられないでいる。

父の体に合わせて作ってあるので、誰の体にも合わず、誰も着ない。
1階のクローゼットに風を通すため少し開けるたびに、並んだ父のスーツが見える。
もう誰も着ないのだからいい加減、と手に取るが、このスーツを着る父の颯爽とした姿を思い出し、未だに捨てられない。

そういうものはきっと時間が解決してくれるんだろうと思う。

わたしが引っ越しして疎遠になってしまったけれど、あの家はどうなったのかなぁ
もう何年も会っていない。

家が広くて置ける場所があり過ぎて、物があり過ぎるあの家。
住人はいつも何だか疲れていて、どよーんとした空気をまとっていた。持病のせいもあるけれど、あの多すぎる物が悪影響を与えていたとしか思えない。

もっと積極的に片付けしよう!掃除するよ!って関わっていたら良かったのかなぁ
いや、そんなふうに関わって力尽きた友達がいたっけ。結局は住人の気持ち次第なんだよな。けれど気持ちが切り替わるには、ある程度物が減らないと無理な気がする。

もう要らない使わない物、あり過ぎる物は人のエネルギーを奪う。

見回すと、自室も、家全体も、一見片付いているように見えるけれど、まだまだだ。
屋根裏や1階の納戸もある。気が遠くなりそうだけど、一気にやろうとしない。コツコツ、ちょっとずつ。

ふいに入った片付けスイッチが切れないうちに、合間に片付ける癖、習慣化したいな。